普段リーゼントの人が髪下ろしてる時の破壊力、を3次元で味わってみたかった

矢沢あい展に行ってきた。入場を待って並んでる間も、周りにいる人たちがみんなオシャレでわくわくする。NANAの世界観に住んでる人やー!って思ったり、大人になった実果子や…って人がいたり、どういうコミュニティ…?っていうくらいバチバチにファッショナブルな男性グループがいたり、みんな矢沢先生の何かに影響を受けた人たちなんだなぁと思うとなんで私はこんなママさんバレーの帰りみたいなカッコなん…って急にいたたまれなくなる。もっと可愛い服着ていけばよかった!暑かったからさぁ!

私は本当に漫画もドラマも映画も小説もストーリーを覚えてられないので、記憶の中の作品は好きだった、とおもしろかった、の二つでやらせてもらってます。でも、そんな私でも中に飾られている作品の断片を見ると「うわー!これ覚えてるー!」となるわけです。実際には覚えてたというか思い出してるわけですが、記憶の引き出しにはあったということが嬉しい。不思議なもんで、「こんなんあったっけ」なんてものが一つもなかった。全部懐かしくて、ここ好きやったー!っていうものがいっぱいあって、心の奥の方から引っ掻き回される心地よさを味わいました。

途中、ご近所物語の実果子のセリフ

「手に入れたいのはハッピーエンドじゃない、鍛え抜かれたハッピーマインドだ」

がバーン!と目に飛び込んできた瞬間、なんだか泣けてきた。そうなんだよ、そうなんだよなぁ。ハッピーエンドは一つの区切りであってそこさえ良ければあとはどうでもいいわけじゃない。ハッピーマインドさえ持ち合わせていれば人生はもっと豊かになるし、ネガティブな思考はどんどん自分でアンラッキーを誘い込む、ということをつい最近すごくすごく、それはもう痛いほどに実感したところだったからもう……そうなのよ実果子……とじわじわ涙が出る。でもその言葉にまた出会えたからこそハッピーマインドでやらせてもらいます!って自分に言い聞かせられるようになった。長い時を経てまた巡り会えてよかった。

絵が綺麗、なんてのはもちろんなんだけど、なんで矢沢先生ってのはあんなに文章で心をギュッとしてくるのかねぇ。鷲掴みにするというよりはつねられる感覚に近い。会場内を回ってる間何回もそれを味わった。

大人になってからこんな機会が巡ってきたから後悔しないように、と思ってお金はいっぱい持っていった。グッズいっぱい買った。ポストカードがどれも美しすぎた。おっきい紙袋をパンパンにして私はNGKに向かった。

 

いきなりお笑いへハンドル切るやん。

もしかしたら体力的にもたないかもしれないと思って前売りは泣く泣く諦めたんだけど、思いの外元気だったから当日券で入った。

その前にラーメン食べて、コーヒー飲んで、スフレパンケーキ食べて、美味しすぎて感動して、幸福度ギュインギュインに針振り切ってる状態でお笑い見て、めっちゃ笑って帰った最高な一日でした。

 

あんな楽しいことある?

今年一番楽しい日だったかもしれない。

 

そわそわそわそわ

人と上手く話せない期。

今の私である。

それを私はここ最近発症してると思ってたけど、もしかしたらここ数年なのかもしれない。

あれ?友達って好きなタイミングで連絡していいんだっけ?でも今日は夜遅いからだめだわ、とか、どんな会話するんだっけ?とか、とにかくなんだかもう距離感がわからない。

相手が何を求めてるかわからずに、それを探りながら接するとなんだか息苦しくてまた少し離れてしまう。

え?私ってこんなんだった?今までどうしてた?極端に人と話す機会が減ってわけわかんなくなってるのかな。植物とばっかりコミュニケーション取ってるから?いやいや、そんなそんな。

相手の表情が見えないことと、考えてることが伝わりにくい文字だけのコミュニケーションってやっぱり不安になりやすい気がする。

喜んでるのか迷惑なのか推し量る情報が少なすぎて判断に困った末、自分の身の振り方がわからなくなって閉ざしてしまう、というのが最近の私。たまに勇気を出してみるけどやっぱりわからず振り出しに戻る。

 

でも顔を見て話せば今までと変わらず楽しく話せるし何も思い煩うことはない。

そもそも親友とだって普段LINEでたわいもない話をすることはほぼなくて、「次いつご飯行く?」の連絡をふらっとお互いがするシステムだから余計かもしれない。目を見ずにする雑談、がもしかして苦手なのか?気づくの遅すぎない?

人と思うように会えない時期が続いて自分の中の何かが変わってきたのかなぁというのが私の見解です。

 

見えない会えないをもっとプラスに変えていける何かを見つけていきたい。

ヨネダ2000と夢の中で遊ぶ

ロッコのような乗り物に乗って、ゆっくりゆっくりカタカタカタカタ進んでいく中で見える景色に愛さんがいる。何やら揉めている様子。

イメージ的には駅のホームでエキストラをたくさん使ったお芝居をしている横を私たちは通り過ぎていく。

私たち、というのはもちろん私と亜真音さんである。

なぜか「笑ってはいけない」の要領で視界に入った愛さんが誰かにブチギレてる様子に吹き出しそうになるんだけど、必死に堪える。

亜真音さんが私の体を肘で突いて「見て」と言わんばかりに愛さんのアピールをしてくる。

 

もう!笑ったらあかんねんって!

 

っていうどうしようもなく込み上げる笑いを必死に抑えながらも口角がぐぅーって持ち上がってニヤニヤしながら目が覚めたんだけど。

あんなニヤニヤしながら起きるなんてなかなかない経験。

ただそれだけなのに亜真音さんと乗ってたあの空間がすごく心地よくて、楽しくて、触れてた体の感触も残っててすごくリアルだった。

私たちはすごくくっついてた。

今思い出したけど、私は乗り物に乗る時に体をくっつけるのが好きなのかもしれない。体をくっつけて乗り物が動くことがわくわくするのか、体をくっつけてるからわくわくするのかわからないけど、小学生の頃遠足で乗るバスで限界まで友達と身を寄せ合ったり折り重なったり手を繋いだりして「えへへ!」みたいになってたなぁ。なんや、えへへって。

 

亜真音さんが愛さんのことを「愛さん」と呼ぶのが気に入ったので私もそう呼んでみてる。

ラジオもおもしろかったしもう少し彼女たちのトークを聞ける機会が増えたらいいなぁ。ネタめちゃくちゃ好きなんだよなぁ。

天と地

すごくすごくいい日だったのに、後半転がり落ちるように私から全てを奪っていくような錯覚にさえなった時のことを記しておこうと思う。

 

きっかけは「ちょっとショックぅ」くらいのことだったのに、それが時間と共にどんどん大きく膨らんで、そしたら今度はここ数ヶ月感じてた小さな引っかかりや気づかないふりをしてきたモノたちとくっついて胸の中でパンパンになってしまった。

たとえば最近ご飯をちゃんと作れていないとか。手抜きが多くなってることには気づきつつ、でも何となくやる気が出なくて、とは言え栄養が偏るのも怖くてきっと折り合いがつけられずに結果自分を苦しめてた。

たとえば隣でボケてくれてるのに上手く突っ込めなかったこととか。自分でもいやいや、素人が何言ってんの?とは思うけど、たまにほんとにボケられても「この子何やってるんやろ…」ってそのボケが理解できずにフリーズしてしまうんだけど、普段割と早めに突っ込むことが多い分それは無視されてると捉えられるみたいで「何か言ってよー」って悲しまれてしまう。そのことが辛い。その瞬間脳をフル回転させて、このポーズなんやろ…私の前でするってことは私との会話に出てきた何かってことかな…最近何話したっけ…って思い出そうとはするものの、結局蓋を開けてみたら私がわかりようのないことだったりする。でもその時は多分「いやわからんわからん、それなに?」って早めに聞くのがベストなんだろうしそういうツッコミを待たれているんだろうけど、真剣に考えてしまう時がある。無視してるわけじゃないんだけど、「無視されたー」って言われてしまうとごめんごめんってなってその後もしゅんとしてしまう。早くに結論を出した方がよっぽどいいのに頭の中で考える時間を長く作ってしまいがち。

ボケを拾えなくて傷つけてごめんねぇって号泣したの生まれて初めてやわ。どうかしてる。

あとはお母さんに優しくできなかったな、とか。もっと優しい言い方もできたはずなのになぜか強い口調になってしまいがちで、会った後とか電話の後はいつも傷つけたかなってものすごく悲しい気持ちになって引きずる。なのに毎回学ばない。

髪をもう少し伸ばそうと思うのにいつも我慢できずに切ってしまって全然伸びないのなんで、とか。切るからや!

もっと勉強したいことがあるのに最近夜になるとすぐ横になりたくてベッド行っちゃうこととか。

数分でできるはずの友人への連絡がなぜかとても大仕事に感じて何週間もかかることとか。

 

一回泣いて話し始めたらくだらないものから人生のテーマ的なものまでどんどん出てきて、苦しくて、自分で首絞めて終われたらいいのになぁと思った。死にたいわけではなくて、いや、違うんです、ちょっと息止めてみたら死んだんです、みたいな。そうなりたかった。大袈裟に、ではなく、ついうっかり。

 

今も蛇口が緩んでるからふとした時にちょろちょろ涙が出るけど、概ね元気です。

 

 

ちょっと嬉しかった話ー。

先週末、ホテルで一泊し、好きなものをただ食べようの会をしました。飲食店は早く閉まっちゃうし、行ったとしても二人の間に衝立があると「え?」ってお互い何回も耳近づけて聞き直す、みたいな40年後の予行演習になって会話もままならない!てことで他の人のことを気にせずのびのびできる場所で楽しむためのホテルです。ちなみに大阪市内から大阪市内の移動。電車で10分くらいの距離。

 

でね、そのホテルにはカフェスペースがあって、コーヒーとお茶菓子をご自由にどうぞという素晴らしい時間が設けられていました。

私たちはホテルに着いて荷物を置いて、先にお昼ご飯食べに行って、その後夜の分の買い出しに行って、既にめちゃくちゃ疲れた状態でホテルに戻りコーヒーをいただくことにしたのです。

そこに置いてあったのが個包装(所謂キャンディ包み)された何かで、これなんだろねーって言いながらいくつかお皿に取って席に座ってコーヒーを飲みながら食べてみたら

「あ!これあれに似てる!」

と興奮する私。

「あの、あれあるやん!駄菓子屋さんに売ってた占いついてるチョコ!食べたことない?えーおいしー!」

その例の占いがついてるチョコを大きくしたようなチョコだったのです。丸いチョコの周りに糖衣があってパリパリして美味しい。

 

家に帰ってから私、調べました。あのチョコが忘れられなくて。家でも食べたいなと思ったのです。でもヒントが少なすぎる。包みには社名も商品名もなかった。

 

「駄菓子 占い チョコ」

 

でまず調べてみる。ほー!チーリン製菓さんっていうところが作ってるんやー…。チーリン製菓さんのHPに飛ぶ。何やら最近おうちで駄菓子屋さん、とかいうセットが人気とかで売り切れのお知らせがある。なるほど、今の時期は特にそういうの楽しいかも!ただ駄菓子を手に入れるだけじゃなくて、駄菓子屋さんぽい陳列にできると尚更楽しいよね。あ、チョコのラインナップがある……もしかして……もしかするのか?

 

 

あーーーん!これですーーーー!

 

オールシーズンチョコ

 

やってーーーー!

あ!もしかして糖衣で溶けないからオールシーズン楽しめますよ的なこと!?

ていうかやっぱり占いチョコの味で間違いなかったー!私の舌えらいぞー!覚えてるもんなんやなぁ…と感動にも似た気持ち。

 

懐かしい味の記憶を呼び起こされて嬉しかったのと、美味しかったのと、ちょうど疲れて帰ってきたところに食べたから元気になった気がした。また食べたいな。

いくつもの週末/江國香織

これを読み始めた時、やばいぞ…これはやばいぞ…と何度も思った。だって何もかもが好きすぎる。私の好きが詰まりすぎてて言葉が出てこない。困ったぞ。好きなんだよなぁ、江國さんのこういうところ。どういうところ?って言われても困る。なんか全体的な雰囲気。一つを例に挙げただけではそれがきっと伝えられない。困った。

歳を取るにつれ、恋焦がれる気持ちとか、会いたくてたまらない気持ちとか、そういう熱いものってどんどん忘れていくようなイメージがあるかもしれないけど、全然そんなことない。

何度だって会える瞬間は嬉しいし、長く一緒にいられる日を楽しみにするし、心はいつまでも弾む。でも何もかも手放しに好き、というわけでもなくて未だに相容れない部分もある。でも離れていられない。くっついていたい。ずっとこうしてられたらいいのに。が詰まってる。

 

気持ちを伝えるときにどんな風に好きなのか、どのくらい好きなのか、を「好き」以外の言葉で伝えるのが上手だなぁと感心してしまうし、そのどれもが素敵な愛のうたみたいで私はこれを読むだけですっかり心が満ちてしまう。

 

あっという間に読めてしまうので今二周目に入ってるけど、読んでる間ずっと顔が緩むのでいい薬です。

 

羊と鋼の森/宮下奈都

ピアノの調律師を目指す人の話だった。「線は、僕を描く」にすごく似てる。雰囲気が。

何かに出会ってそれに取り憑かれたように夢中に目指して、練習して勉強して、苦悩して、でも憧れるものに向かってひたすら一生懸命っていう。静かな情熱が書かれてる。

 

一番好きなシーンはp188の「わがままだなあ」です。主人公の外村くんが先輩と一緒にあるお宅へ調律しに行くんだけど、部屋には防音カーテンが二重に掛けられている。もちろん防音している状態と、それを取っ払った時の音の響きは全く違うから、彼は昼間だし開けてもいいのでは?って思って開ける。でも先輩は、普段はそのカーテンが閉められてるわけだから、同じ環境で調律したい。「閉めて」「でももったいないです」からの「わがままだなあ」です。

その後もう一回閉める、開けるの攻防があって「こどもかよ」って笑われるのもとてもいい。彼は今まで何かにわがままになったことも、こどもみたいな振る舞いもせずに生きていたからはっとするのよね。今までは通したいほどの我がなかったって。ほとんどのことに対してどうでもいいと思ってきたって。

わがままになれるこだわりがあるのも幸せなことなのかもしれない。

 

私も子供の頃調律に来てもらうとそれを少し離れたところがじっと見るタイプの子で、見られてる方は嫌やったやろなぁ…となんとなく思う。何をやってるのかはさっぱりわからないんだけど、でも私の大切なピアノを開けて何か作業をしているというのは子供ながらにある意味「見張り」が必要でもあって、あとは単純な興味。何をして何が良くなって、調律の後は気持ちよく弾けるんだろうっていう。

 

子供の頃は耳が良かったからよく「おかあさーん、ピアノの音おかしくなってきたー」って言ってたらしい。そしたら「あーそろそろちょうど調律に来てもらう時期やわ」ってなことに毎回なってたとか。うちにあったピアノは私が大人になってから売られてしまったけど(弾かないし仕方ないと言えば仕方ないけど寂しい)、どこかのお家で誰かに弾いてもらえてるかしら…。とぼんやり考えたりする。思えば子供ながらに大事にしてたなぁ。ダスキンでしょっちゅう拭いてたなぁ。ダスキン懐かし!