下唇の話

今読んでる小説の中に、「君の話はもう聞きたくない」って旦那に言われる主婦が出てくるんだけど、まぁなんと殺生な。
「じゃあ私は誰に話せばいいというのだろう」って、そりゃ思うよね!パートナーに話せない辛さったらないわ。
でも、その続きに“私にはわかったことがあって、彼は臆病なのだ”とある。なるほど、臆病。それでやっと気付く。ああ、私も臆病なのだ。

実際、「もうその話いいよ、聞きたくない」と思うことが多々ある。口には出さないけど。ネガティブな感情についての話ではなく、ネガティブな事象について話されるとこっちがたまらなくなるのだ。誰かの悪意や嫉妬、憎悪の感情がその人の言葉を伝って一気に流れ込んでくるあの感覚が、たまらなくなるのだ。

でも、かと言って何もかもを聞きたくないわけではなく、悲しい気持ちを共有されることも本当は嫌いじゃない。じゃあ何が違うのか。何で隔たりができているのか。
話し手から僅かに垣間見える被害者意識みたいなものかなと、ふと思った。

「悲しいことがあったの」
「さみしい気持ちになったの」
から始まれば、どうしたのどうしたのって親身になって聞いてあげられるし、私がやっつけてあげる!とも思えるけど、

「あの人ってね、ひどいんだよ」
な雰囲気だと、ん?それはどうかな?みたいな引っかかりを覚える。そこに悪意があったかどうかはわからないわけで、どう感じたかを話すのはいいけど決めつけが混じることって恐ろしい。

話を聞く時に基本的にはフェアな目線でいるから、友達だから、恋人だから、家族だからって何もかもをそっちのけで同意してあげられるわけじゃない。だけど事実はさておき、感じたのは本人なので「気持ち」を中心に話してくれるとそれは辛かったね、嫌な思いしたね、そういう時あるよねって気持ちに寄り添えるんだろうなぁ。

そしてそういった「ネガティブな話」を持ち込んでくるのは、私の場合決まって母なのだ。

なぜかさっきからネガティブ、と打ってたつもりが全てネガテイブになってた。この間は予測変換のせいでネガティヴ、になってて下唇噛む系のネイティヴ表記になってて恥ずかしかった。しまった、ネイティヴも下唇噛まなあかん。忙しい。