冬柿が待ってる

最後に詰め替えた時多少の迷いはあったものの、夏の間に誰かに宛てた手紙や誰にも宛てない手紙でインクを使い果たし、季節が変わる頃にちょうどいいタイミングで秋色に変えるという算段だった。だが私の天色は一向に減っていない。おかしいなーおかしいなー。今kakunoが三本手元にあるけど最近全然使えてない。本当は欲しい万年筆があるけどそれを買ったらこの子たちはどうなるんだろう。そう思うと「今」じゃない気がする。

今年は何かを見て感じたりどこかへ行ったりしたら全部書き記そうと思った。そのために方眼ノートも買った。でもやっぱり続かなかった。大事にしたいものほど後でゆっくり書こう、なんて思ってると吸収したものを吐き出すタイミングが徐々に合わなくなってきて、結果溜まる一方だ。そもそも私はめんどくさがりなのだ。だけどそれだけを理由にせず、ここで敗因について自己分析をしておきたい。ノートがね、でかすぎたね。なんで私はあんな買ったこともないようなサイズを選んだんだろう。多分、いっぱい書ける!とかなんとか子供みたいな感覚だったんだろう。でも実際は取り出すだけで一苦労。シンプルにめんどくさいのである。一つの事柄について何ページに分けたっていいんだから使い勝手のいいサイズにするべきだということを学んだ。次があるかどうかはわからないけど、機会があればその時はロルバーンを買ってみようと思う。

その延長でいくと、手帳を買おうかどうしようか悩んでいる。手帳に関しては何回失敗したかわからない。なんせめんどくさがりなのだ。でも手帳を買うとペンとかマステを買う楽しみや使う楽しみが増えて生活にハリが出るんじゃないかなんて夢見るけど、実際は書くこと自体そもそもないよね。で、真っ白なまま終わるのよね。気に入るものがあれば買おう、そうしよう。

今日久しぶりに手紙を書こうと思ったから万年筆を手に取ったわけだけど、どうも違和感があった。便箋との相性が多分悪かった。つまり紙ね。その前に別のノートにメモした時はこの子も随分馴染んできたなぁなんて思ってたのに、便箋になった途端引っ掛かりを感じる。子供の頃は紙の質なんて考えたことなかったけど確かにそれは存在していて、その差ももちろん顕著に出る。人みたいだなぁって。知らなければ気付かないことも多いのかもしれない。引っ掛かりを感じても「こんなもんなんだろう」って。満足のいかない字を見ても「自分の字はいつもこうだ」って。でもある時相手が変わったら途端になめらかになった書き心地とか、心なしか整って見える自分の字に「え?何これ」って戸惑いさえ覚える。「こんなにスムーズに書けるもんなの?」とか「意外とまともな字書けるじゃないか」とか。自分だけではどうにもならないことがたくさんあるね。相性って大事だよ。こういうもんだって可能性を握り潰すよりも、まず相手を変えてみては。自分が悪いんじゃない、相手が悪いんじゃない。全ては相性だ、と教えてくれた日だった。