ソファーの上のカボチャと猫

「猫の耳がね、取れちゃったの」

と悲しそうな顔で言う。

「あーだから全部外してさっきそこに置いてあったの?いいよいいよ、どうせハロウィン終わったら仕舞わないといけないし」

ここ最近店のトイレの飾りは私が担当してたから、きっと申し訳なくなって報告してくれたんだろうと思った。

「お昼に来た三人組の男の人がいてね、絶対そのうちの誰か。多分あの人だろうなっていうのはわかってるの」

彼女の中では犯人探しが始まっている。

聞けば飾り棚ごと落ちていたらしい。狭い空間で120センチの高さから棚が落ちれば嫌でも気付くはず。きっとそんな脆いものだと思わずに手でもついたんだろう。

「なんでごめんなさいが言えないんだろう」

怒りの混じったその声にふと、彼女は傷付いているのだと理解する。

物が壊されたからじゃない、私に申し訳ないからでもない。トイレに残された耳の欠けた猫と悪意に心を痛めている。それを確信し始めたのは家に着いてからだった。悪意に変換してしまっているのは自分自身の心で、真実はどうかわからない。だからたくさんの可能性でラクにしてあげればよかった、と悔いる。

謝りたかったけどどのタイミングでどう言えばよかったのかわからなかったのかもしれないね、とか、ダイソーで買った猫だけどもしかしたらとんでもなく高価な物に見えて怯んだのかもしれない、とか。今だったら思いつくんだけど、その時はそこまで考えが至らなかった。

作り上げて膨らませた悪意に苦しめられてないといいな。時折私がそうであるように。そんな夜はどうすることもできなくてただ眠れなくなることを知っている。だからそれを想像する夜もまた、私は眠れなくなるのだ。

 

小さい頃、おばあちゃんの家で親戚が集まって宴会をしてる時に「ビール取ってきて」と頼まれたことがあった。おばあちゃんの家では玄関にそれ専用の冷蔵庫があって、瓶ビールと、子供たち用にファンタオレンジとコカコーラが用意されていた。

たった数メートルの距離だけど、私にとっての初ミッション。緊張しながらも真顔でそつなくこなすつもりだった。だがしかし、つるんといったのだ。つるんと。しっかりとこの手に握りしめたはずが指から滑り落ちて瓶は見事に割れた。放心である。幼いながらに私はどんくさいタイプではないと思ってたし、絶対落としてはいけないものを呆気なく落とすなんてあってはならないミス。怒られると思った。いや、怒鳴られると思った。でも大人たちは口々に「大丈夫?」「怪我してない?」と駆け寄ってきてくれた。大人ってなんて優しいんだ、と驚いた。だけど「ごめんなさい」は出てこなかった。大変なことをしでかしてしまった、という気持ちだけはしっかりとこの胸にあったし申し訳なさで膨れ上がっていたけど、どうしても声にならなかった。

危ないから部屋に戻ってて、と言いながら割れた瓶の片付けをする大人たちを尻目に、誰に何をどう詫びていいのかわからなかった。「重いものを俺が取りに行かせたからやなぁ、ごめんな、びっくりしたやろ?」って言われたこともはっきり覚えている。でも私はそれに対しても首を横に振って泣くだけで、謝ることができなかった。とりあえず言葉にしてみる、ができればよかったんだけどきっとその頃から私は先に思考を巡らす癖があったのだ。

誰に、何を申し訳ないと思って、どういう気持ちでいるかをどう伝えるべきか。そんなことを考えている間にも大人たちが優しくするので尚更混乱したのかもしれない。

今でもなんで泣いたのかよくわからない。そんなに泣く子供でもなかったのに。優しくされたことで自分の不甲斐なさが一層際立って悔しかったのかもしれない。いや、もっと単純に緊張して張り詰めていたものが優しさによって一瞬で解けて涙が出たのかもしれない。

 

理由は違えども、「ごめんなさい」を言えない人にはみんなきっと色々あるのだ。

そう思って今回の件を消化したい。