言葉の一歩先を思う

私の言葉をどこまで額面通りに受け取るのか、という話。
私は他人といることがとても窮屈でしょうがない。疲労感ばかりが残るからなるべく短い時間で済ませたい。約束するのは苦手。あまり先のことは話したくない。みたいなことを度々口にするんだけど、こんなことを言うと極度の人嫌いだと思われるんだろうか。どんな風に捉えるかももちろん人それぞれなんだろうけど、もしかしたら可哀想な人、と思われるかもしれない。
だから例えばそんな私が誰かと頻繁に会うようになった姿を見て「昔はあんなこと言ってたのに…成長したね、ほろり」感を出されるとものすごく面食らう。誰にでもそれが有効だと思っていたのか、と。
私が「他人」や「人」と形容する中に、当たり前に「好きな人」は含まれていない。全く別物である。ちなみにここでの好きな人、とはグループ分けされた好きな方、ではなく選びに選んだごく少数を指す。好きな人とはずっと一緒にいたいし一緒にいてラクだし楽しさしかないし、約束をすればその日までずっと待ち遠しい。私からすれば、「好きなんだから当たり前でしょう」な話であって寧ろ、そう感じるから好きなんだろうけど。なので、ほろり感を出されるとそれを否定しようにもその人の中にその感性がなければ伝わらない話だし、なにしろめんどくさいしで途端に窮屈に感じて逃げ出す傾向がある。
人付き合いが苦手で大変そうっていうイメージを持つ人がいてもおかしくないこの情報で「好きな人は当たり前に例外」がわかってくれる人をとても好ましく思う。

「人生我慢しなあかんこといっぱいあるんやからトイレだけは我慢したらあかん」って私が小さい頃からうちのマミーがよく言ってたんだけど、生きてるだけでしんどいことなんていっぱいあるんだから自分で選べるものは好きなものだけにしたい。ふらっと文字を打つ相手も、声を聞く相手も、食べるものも。
取り除いていく生き方ではなく、そうやってちゃんと選んでいく生き方をしています。自分の心が何に喜ぶのか、ちゃんと耳を傾けています。そうやってこれからも自分を幸せにしてあげたいのです。